節分といえば、「鬼は外! 福は内!」の掛け声で豆まきをして鬼を追い払う行事ですよね。
でも、渡辺さんは、節分に豆をまく必要がないというのだから驚きです。
どうして渡辺家では節分に豆まきをしなくてもいいのでしょうか?
ここでは、その由来に迫ります!
そこには、鬼退治で大活躍した、あるヒーローが関係していました。
節分で渡辺さんは豆まきをしない由来とは?
渡辺さんは節分で豆まきをする必要がないというのは、今から千年ほど前、平安時代のお話に由来します。
平安時代中期、京都の大江山に住む酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼が、多くの鬼を従えて、たびたび都を荒らし回っていました。
大酒飲みだったことから、手下たちから酒呑童子と呼ばれていたそうです。
(酒顛童子、酒天童子、酒典童子、朱点童子などとも記されます)
酒呑童子と大嶽丸の首、白面金毛九尾狐の遺骸は、あの藤原道長で有名な藤原家が代々守る「宇治の宝蔵」に納められているというお話が、御伽草子などの説話に描かれています。
宇治の宝蔵は、死後龍神になった藤原頼通によって守られているのだとか。
この酒呑童子たちの討伐を命じられたのは、平安時代の武将である源頼光(みなもと の よりみつ 948~1021年)。
頼光は、「頼光四天王」と呼ばれた配下の武将、渡辺綱(わたなべ の つな)、坂田金時(さかた の きんとき)、碓井貞光(うすい さだみつ)、卜部季武(うらべ の すえたけ)らと共に大江山へ鬼退治に行き、見事に酒呑童子たちを討ち滅ぼしました。
ここで、今回注目の渡辺さん、渡辺綱が登場しましたね。
渡辺綱と坂田金時は格別に勇猛で、鬼たちは、渡辺と坂田を特に恐れるようになったといいます。
『羅城門渡辺綱鬼腕斬之図』
そうです。渡辺綱がこのとき鬼退治で大活躍したから、鬼は渡辺一族を恐れて近づかなくなったので、渡辺家では豆まきで鬼を追い払う必要がなくなったというわけなんですね。
おはようございます!
今日は節分だよ〜
全国のワタナベさんは
豆まき不要らしい!— 渡辺麻友 (@karaage_mayu) 2016年2月3日
同様に、坂田さんも豆まきをする必要がないそうです。
ちなみに坂田金時とは、子供の頃にまさかりを担いでいた、あの足柄山の金太郎です。
金太郎というと、前掛け一丁でまさかりを担いで、熊にまたがってお馬の稽古をしていた昔話の姿しか思いつきませんけど、源頼光の家来になって、鬼退治で大活躍していたんですね
渡辺の苗字を持つ人は全国に何人いるの?
現在、渡辺姓を持つ人は、全国に約110万人ほどいるそうです。
渡辺さんが特に多いのは、次の地域です。
2位 神奈川県 約8万9千人
3位 千葉県 約7万7千人
4位 埼玉県 約6万6千人
5位 愛知県 約5万9千人
渡辺という苗字は、日本で6番目に多いそうですよ。
(1位 佐藤、2位 鈴木、3位 高橋、4位 田中、5位 伊藤)
鬼退治のお話 渡辺綱たちはどのように鬼と戦い 勝ったのか
源頼光らによる鬼退治の話は、次のようなものでした。(昔話のため、細かい部分がこれとは異なる伝承もあります)
実は彼らは、石清水八幡、住吉明神、熊野権現の化身で、頼光らに神酒と隠れ蓑を授けます。
神酒は、人が飲めば力が増し、鬼が飲めば力を失います。
隠れ蓑は、その名の通り、まとうことで姿を消すことができます。
そして、その老人たちは、「その姿のままでは鬼が警戒するだろうから、山伏の姿に変装しなさい」と頼光らに助言しました。
頼光ら一行はその助言に従い、山伏の装束に身を包んで大江山の奥深くへと進んでいきました。
すると、川で血まみれの布を洗う老婆がおりました。
その老婆は、涙を流しながら頼光らにこう言いました。
「私は、元は都に住む貴族でした。ある時鬼にさらわれましたが、痩せていて食べても旨くなさそうだということで、鬼の力で200年の寿命を与えられ、こうして下働きをさせられています」
そして老婆は、酒呑童子たち鬼の住む城への道と、城内の様子などを頼光らに教えました。
やがて、頼光らは鬼の城に到着。
山伏の姿に変装した頼光らは、道に迷ったので一晩泊めてほしいと鬼に頼みました。
鬼はその頼みを受け入れ、頼光らを城内に入れました。
頼光はお礼として神酒を差し出し、喜んだ酒呑童子ら鬼は、酒盛りを始めたのでした。
そしてその晩、頼光らは鬼の寝床へと向かいました。
神様の化身である老人から授かった隠れ蓑で身を隠し、寝ている酒呑童子に近づくと、一気に首をはねました。
しかし、酒呑童子は、首だけになっても頼光に襲いかかります。
酒呑童子の首は頼光の兜に食らいつき、そのまま動かなくなりました。
唐津くんちの曳山『酒呑童子と源頼光の兜』
頼光四天王の渡辺綱、坂田金時らも、他の鬼たちを次々と成敗していきます。
鬼たちの中には、鬼の四天王である星熊童子、虎熊童子、熊童子、かね童子や、酒呑童子の最も重要な家来である茨木童子の姿もありました。
茨木童子だけは、酒呑童子が打ち倒されたのを見て、これはかなわないと逃げていきました。
かくして、鬼たちに打ち勝った頼光らは、酒呑童子の首級を携え山を降りました。
その途中、川辺に人の骨が。
鬼の城への道を教えてくれた、あの老婆です。
鬼が退治されたことで鬼にかけられた術が解け、一気に寿命を迎えて朽ち果ててしまったのです。
頼光らは、老婆の亡骸を丁重に葬り、都へと帰っていきました。
唯一逃げ出して生き延びた茨木童子は、その後、徒党を組んで復讐に向かいましたが、返り討ちにあい、渡辺綱に腕を切り落とされました。
のちに茨木童子は切られた腕を取り戻したものの、これによって鬼たちは完全に渡辺綱を恐れるようになり、渡辺綱とその子孫には近寄らなくなったということです。
酒呑童子は外国人だった!?
山伏に変装した頼光らを迎え入れた酒呑童子は、酒を飲みながら自らの身の上をこう語ったといいます。
「自分は越後の国(新潟県)の生まれで比叡山に住んでいたが、最澄(伝教大師)に追い出され、この京都大江山に移り住んだ。
しかし、ここでも空海(弘法大師)に追い出され、空海の死後、舞い戻ってきた」
この言葉は御伽草子に記されているのですが、酒呑童子が生まれたという新潟県にはこんな伝説も残っているそうです。
酒呑童子の幼名は外道丸といった。
美少年だった外道丸は、多くの女性から恋文を受け取ったものの、彼はそれらを読みもせずに燃やしてしまう。
その女性たちの恋心が炎となって外道丸を取り囲み、恨みによって彼は鬼になってしまった。
都の姫をさらっては側に仕えさせたり、その肉を食ったりと、悪行の限りを尽くしていたとされる酒呑童子がイケメン美少年だったというのは意外ですね。
酒呑童子の出自などについては、文献によって違っていたり、各地に残る伝説も、内容はバリエーションに富んでいるのですが、彼の正体は外国人だったという面白い説もあるんですよ。
酒呑童子の正体は、日本に漂着した西洋人だったというのです。
新紀元社の「鬼」(Truth In Fantasyシリーズ)には、酒呑童子についてこのように書かれています。
彼はフランドルの貴族で冒険家だったが、宋からジパングに船で渡ろうとした時に嵐に遭い、日本の丹波国(現在の京都、兵庫、大阪の北部)に流れ着いて、そこで山賊の頭目になった。
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「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」(高橋昌明著 中公新書)にも、酒呑童子は丹後(現在の京都府北部)に漂着したドイツ人「シュタイン・ドッチ」で、生き血を飲んでいるように見えたのはワインだったいう説が書かれています。
また、これらの著書では、酒呑童子はロシア人だったという説も紹介されています。
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これらはあくまで、はっきりとした根拠のない俗説ですが、昔の日本人には西洋からやってきた外国人(白人)は鬼のように見えたというのは、いかにもありそうな話で、興味をそそられます。
確かに、シュタイン・ドッチ、シュテイン・ドッチというのは、酒呑童子と音が似ていますし。
同じ様な話で、天狗のモデルになったのは外国人という説もありますね。
信じるか信じないかはあなた次第、な話ですけど、節分の豆まきをしながら、そんな歴史ロマンに思いを馳せてみるのも面白いのではないでしょうか。
まとめ
渡辺さんが節分に豆まきをする必要がないのは、平安時代に都を荒らし回っていた酒呑童子らの鬼を渡辺綱たちが退治して、鬼から恐れられるようになったのが由来だったんですね。
坂田金時(金太郎さん)も一緒に鬼退治で活躍していて、面白い歴史・伝承のお話でした。
ちなみに、節分には豆まきをしない渡辺家がある一方、「豆まきしたい」と言っている渡辺さん、「え? 普通に豆まきしてるんだけど?」と言っている渡辺さんもいるそうです(笑)